眼の系譜 みんなが王道を目指すなら喜んで横道に逸れる
眼の系譜というものを探っている
古道具を扱う上で避けて通れない古道具坂田の眼
今の古道具、工芸の文脈を語る上で外せないとも言える
その上の世代には柳宗悦だったり青山二郎、白洲正子だったりといった数寄の眼を持つ人たち
時代時代によって眼の存在は貴重だ
古道具のアップデートが古美術の世界?という疑問を持ったのが坂田さん
物の持つ価値とは?という意味で名前のあるもの(古美術の持つ権威)と戦っていたとも言えるだろう
そこにモロ影響を受けた世代が今の工芸の先駆者たち
その人たちが提示する一つのジャンルに対する問いというのが今の論点
でも今日は別の切り口で見てみたい
民藝や工藝とは別にアートの切り口で坂田さんと同世代で活躍する人
杉本博司の眼
杉本さんの選ぶ古美術の審美眼はもう超勉強になるんですよね
線の繊細さや物への造詣
歴史の歴史展でのアートと古美術の融合だったり茶の空間演出だったり
でもそこの眼という点で議論されてるところをあまり見たことがない
どうしてもテーゼを提唱するにあたって強固なロジックが必要になってくる
既存のテーゼに対する問いかけであるアンチテーゼ
カルチャーに対するカウンターカルチャーやサブカルチャー
その大きな問いを持って業界に挑むことが大事ではあるんだけどその問いそのもの自体を今問われている
物をみる時にその物の後ろにある権威(ブランド)というのは少なからず影響するもの
オークションでも誰の手(コレクション)を通して出ているものなのか?というのはかなり大きい
利休所蔵の茶碗となるとその価値がグッと上がるように
時代の眼の影響はものすごく肝心なんすよね
古美術の例になると工芸はアートとして成立すると言える
じゃあ現代の工芸作家の作品はどうなの?というのが今の大きな問い
同じ壺でも作家によって値段が全然違うじゃない
キャリアによって値段が変わるの?
ネームバリューなの?
それともその人の掲げる問いかけなの?
この辺りを考えていかないといけない
中国のギャラリーの人たちは日本の作家の作品を展示する際に日本で売るより1.75倍から物によっては2倍、3倍の上代を設定する
もちろんそこには関税などの条件もあるんだけど
でもその値段でも中国では売れるんですよね
この辺を日本のギャラリーや作家はしっかり考えておくべきっすよね
日本で知名度の低い作家(って言ったら失礼だけど)でも中国だと凄い人気とかもざらにある話で
じゃあその作家はマーケットを見据えて中国での活動をベースにやれば全然食べていけるとも言える
資本主義の原理がここでも働いてしまう
富のあるところにいいものが集まる
でも価格だけ釣りあがっていったらみんながみんなついていけるわけじゃない
市場(大衆)の原理である懐事情も無視できない
1枚何万円もするお皿なんてなかなか日常使いしにくいでしょ?
子どもに割られたらどうしよう。汗
値付けの難しさってここにある
自分の作品にその値段がついた時に値段に対して見劣りしないか?
お店に並んだ時に大丈夫か?
物は不思議なことにおく場所によっても値段が変化するもの
蚤の市かお店か博物館か
建物自体が権威となる
じゃあ、純粋な眼ってなんなのやろか?
自分たちの作るものに対する値段ってなんなんだろう
バジェット無視した時に何を作る?を常に問うてみる
1万、10万、100万、1000万、1億と桁を上げて考えてみる
この値段中古車買えるぞぉと尻込みしたくなるけど想像はタダだからね
億ともなると結構でかい家が立つなぁ笑
それでも欲しいと想う人がどれくらいいるものか
自分のお店(作品)で販売しているもので一番高いものは何か?
逆に一番安いものは何か?
市場の中ではどうなんだろうか?
眼を地道に育てていく
みんな権威を作りたいんですよねー
それはわかるんですけど権威を求めれば求めるほどに純粋さからは遠ざかるように思える
この辺相対関係じゃないのかな?
権威を纏った純粋性とは?→気持ちの問題です
禅問答のように日々悩める毎日です
答えのないものに対して答えを求める
そんなこんなで子どもたちを起こす時間でーす
考えれば考えるほどにわからなくなるから面白い
言葉では語りつくせない物や事がある楽しさ
そういう時は毛穴全開にして感じ切ろう
人はこねくり回すし自分の考えをなかなか手放せないものっすからね
みんなが王道を目指すなら喜んで邪道という横道に逸れよう←基本天邪鬼な性格
偏見という色眼鏡を外し続ける
これがほんと大変なんすよ
曇りなき眼(まなこ)で見定める
さあ今日も手をコツコツ動かしていきましょう
最高な一日を