キュレーションと禅問答
それぞれがそれぞれに自分が観たい世界をキュレーションしている
だから同じ世界にいようとも観ている景色はもれなく全員違うといってもいい
昨日は精神状態からその観点の考えを綴ったがここをもう少し掘り進めてみたい
まずキュレーションってなに?ということを考えてみる
キュレーターという仕事ありますよね
一つに ” 定義を拡張すること ” が挙げられる
例えばファーストフードを定義してくださいという問題があるとする
マクドナルドは勿論入るとして、モスバーガー、フレッシュネスバーガーやクアアイナは価格的にどうなるか?
おっ知らず知らずのうちにハンバーガー縛りになってた!!とその枠組みを制定することがキュレーションの仕事の一つ
その枠組みを自分なりに定義すること
あとは境界の設定をどこに設けるか
500円以内という金額縛りなのかハンバーガーという食べ物の種類縛りなのか人それぞれファーストフードですらその境界は違ってくる
牛丼御三家の吉野家、松屋、すき家の狙うターゲット層の違いを店舗のメニューや内装などの構成から考えてみるとかもキュレーションの一つ
これを自然と人は行なっているので自分にとってのファーストフードが誰かにとってのファーストフードではないこともある
この違いの面白さが今観ている世界の違いとも言える
だからみんな違うのは当然のこと
その違いは特異の眼になることもある
みんなが気づかなかったことを自分はこうみえてるんだよと提示すれば「おぉそんな見方あるんだなぁ」というのが分かりやすい例でマルセルドュシャンの泉という作品
誰でも参加していいですよという無資格無審査を売りにしていたアンデパンダン展という美術展示
そこでドュシャンの泉というタイトルのついた便器にサインしただけの作品は「これは美術じゃない」と出品を拒絶されてしまうんですね
ここからが現代美術の始まりともいえる
アートとは何か?の「境界」の問いかけである
どっからどこまでがアートと呼べるのか?
これをアーティストやキュレーターは追求しているのです
でも日本の美術だとアート=自己表現の域を出ていないという問題もあってそこの認識を今一度再定義し直して教育を進めないといけない
なんでもありじゃ人は惹きつけられないんですよね
始める前の初期衝動はそれでも全然オッケー
そこからはあらゆる問題に問いを持ちその問いに対する答えを探し続ける
で、ここに正解はないんですよ
多方向の要因が絡み合っている
シュルレアリスムだってフロイトの提唱した無意識領域が大きく絡んでくるわけでその当時の哲学などの時代背景も密接なんです
無意識の領域で観てる景色も人それぞれ違う
ある人から見ればその絵は空想だと捉えられるかもしれない
鑑賞者側も鑑賞眼を養う必要というのもあって、ピカソのキュビズムの絵を観た感想が「子どもでも描けそう」とか「よくわからないなぁ」だと認識がそこ止まりになってしまう
なんでこんな絵を描いたんだろうとその背景を知ることによってなるほどねと理解が深まる
じゃあ、同じ絵を観てもその人の知識や経験によっても変わってくるってことですよね
だから世界の見方の違いというのは面白い
面白い問いかけに人は魅了される
日常は至る所に禅問答が隠されている
文字や言葉だけでは真理は見出せない
人間は文字(言葉)にとらわれやすいがそれにこだわりすぎると大切なことを見失うかもしれない←言葉酔いな状態
真理(=正当な知識や知恵、本当に正しいこと)にたどりつくためには、物事の本質を見極める必要がある
じゃあ本質とは?を追求する毎日なんですよね
普通の生活において僕らは常識や習慣、利害関係や損得勘定などにどうしても縛られがち
一方、悟りとは、このような状態を脱却することだと言われている
人を地位や関係性で見ない
人や物に対して好きや嫌いの感情を捨てて、損得を考えない
何かを比較したり相対的にみたりするような考え方は捨てる
そうすれば世界はもっと過ごしやすくなると思うとです
そんなこんなで子どもたちを起こす時間でーす
昨日の新月のうつしきオンラインでの作品掲載
ほんとたくさんの人に観て頂き心から感謝です
追加で更新できるように今日もコツコツ手を動かしていきますよ
それぞれの目の前の日常が少しでも良くなりますように
楽しい想像を行動に移す
今日も最高な一日を