メディア論の再読と感覚を研ぎ澄ます必要性
作品(子ども)がかわいくて仕方がないというのは大抵の親に共通するところだろう
自分にとってはアクセサリーでもお店でも写真でも映像でも文章を書くことにしろ全てにおいてあてはまる
じゃあ、それに賛同や共感してくれる一人でも多くの人たちに届けたいと思うのがある種の親心とも言える
その反対は育児放棄にあたる
一昔前は作る人と届ける人がバラバラで餅は餅屋という考え方が主流だった
だから認知を獲得するために雑誌に載るためだったり既存のメディアや媒体に頼る必要があったけど、今は個人の発信の方がスピード感やリアルタイム感があるので目指す筋道が一方向的ではなくなりかなり多様化した
この先もっともっと多様化していくんだろうな
マーシャル マクルーハン(1911 – 1980)のメディア論
今なおメディアとは?の本質を言い当てている名著
以下メディア論参照します
↓
マクルーハンはメディアを媒体・媒介物ではなく『人間の身体の拡張』をするようなテクノロジー全般として定義した
メディア(media)はメディウム(medium)の複数形で『媒体・媒介・中間』といった意味を持つ言葉だが、社会学におけるメディアは『人間と対象の中間に立って、対象についての経験を媒介するもの』といった定義が為されることが多い
メディアは、物事の意味を伝達したり、体験を知識に転換したりする中間的な媒体・媒介物なのである
人間と人間の間に立って情報伝達(意味伝達)や相互行為を媒介する『コミュニケーション・メディア』のことも指している
人間と人間との直接的な対話以外のあらゆる媒体・媒介を含むコミュニケーション・メディアには、本や写真、芸術、映画、音楽、漫画、手紙、文字、鉄道、航空機、貨幣(お金)など様々なものがあるが、世の中にある『他者に何らかの意味・感情を伝えようとするもの』や『二つ以上の場所(地点)やモノを結びつけようとするもの』はすべてコミュニケーション・メディアなのである
テクノロジーとは『身体(身体機能)を拡張してくれる技術・道具』である
社会とは多種多様なメディアに媒介された『複数の人間の相互行為の重層』であるがことからメディア論では『メディアはメッセージである』というという逆説的なテーゼが掲げられ、メディアそのものに複数の人間の相互行為や経験を構造化する固有の特性があるとした
などなど
これでもごくごく一部なので「メディア論」かなり分厚い一冊ですけど読んでみることをオススメします!
古典や名著は今でも日常に活かせる役に立つことが記されている
誰かの知識に触れることにより自分の知識が拡張されていく
それで知識と言葉を頭に詰め込みすぎて頭でっかちにならないように気をつけないとね
みんなどんどん忙しくなる中で、何かをしながらの「ながら」作業で空いてるのは耳
この先、耳も誰かの情報に触れ続ける時代に突入している
だからその耳を取りにきているSNSの典型の例がClubhouse
他にも声帯のデータも考えうるよね
ラジオだと聴きにいくという一方向的だけど相互作用が働いてしまうと依存症ビジネスの誕生になるのは他のSNSみてても同じ轍っすよね
意識して作り出さないとネットに接続されてない時間はどんどん無くなっていく
誰かと接続してたい願望は果てしないほど強いっすからね
なによりも目の前を大事にしないと現実とバーチャルリアリティの優先順位が変わってしまう
ここに精度の上がったVRやコンタクトレンズ型のデバイスが開発されでもすればチェックメイト
自分の観たいものだけが観れる世界の登場です
その中は居心地最高ですよ
怒られることもないし、みんな自分にとって最適化されてるし、脳の要求に全て忠実に叶えてくれる
一度快楽を堪能すると現実世界に戻るのがイヤになってしまう
そうなるとバーチャルリアリティの世界の住人の誕生っす
映画のような本当の話がまさに目の前にあらわれる
そこに抗う為にもこの身体性をデバイスを活用する拡張ではなく感覚自体を拡張できるように整えていきましょう
そんなこんなで子どもたちを起こす時間でーす
全体の空気感とその同調律ってものすごい力になりますからね
だからこそ胆力を養うべく身体と向き合おう
今日もコツコツ手を動かしていきますよ!
最高な一日を