記号論と信用創造からこの先、間(ま)が大事になる
死を意識して生きることで生が際立つ
メメントモリ
死を想え
定期的に自分に問いかける
このままでいいのか?
何がしたいのか?
他人の価値観に振り回されていないか?
心がどこにあるかなんか解らないけど常に興味最前線を突き進む
それはあくまで自分の興味であって世間とは違うところにある
世間というのも間(あいだ)
僕らはあらゆる間にいるんですよね
振り子のように行ったり来たり
善と悪の間を行ったり来たり
この地球で人間を生きるってなかなか忙しいぞぉ笑
記号論
人は記号で物の善し悪しを判断するのか?
誰それが作った物だからいいのか?
あの人の作ったものなら信用できるぞという信用創造
あそこのお店に置いてあるものなら信用できるぞという信用創造
そもそも現在の貨幣制度であるお金自体が信用創造を前提に成り立っている
銀行に行ってお金借りようとしてもその人の信用によって貸してくれるかの判断がされ、借りられる額もその人の築いてきた信用によって変わってくる
この資本主義は信用を数字に置き換えて回っているとも言える
もう少し信用を掘り進めてみる
友達が困ってたら手を貸す
お腹減ってるならご飯でも作ってあげるし話だって聞く
人間関係がそもそもの信用の前提にある
あの人約束すぐ破るからねと信用を失う
今世界の株価はもうよく解らないくらいに爆上がりしている
実体経済が無いかのよう
ここの世界は人間関係が全て数字に置き換わってしまった世界
なんとも寂しいものだ
じゃあ改めて大事になってくるのは人間関係だ
人と人
立ち戻るとここが全て
これを忘れてはいけない
自分の活動の全てもここが根幹にある
世界はどんどん複雑化を辿るけどここだけを忘れなければいいとも思ってる
人と人の関係性が記号になっていないか?
フォロワー数という一つの数字としてだけで捉えていないか?
心の問題がこの先AI社会と繋がってくる
大喜利botに笑わされる時代が間もなくやってくる
そんな情緒なき世界に何を思うか
読み方変えて間(ま)がこの先重要になってくるんではないかと踏んでいる
少しでも空いてる時間があれば詰めるように隙間時間というのがどんどんなくなっていく
時の間
間を読む力
コミュニケーションも文脈も全部間が大事
人と人の距離感も間が大事
相手と対峙した時に間を詰めすぎると相手の範囲に重なりすぎてしまい、自分の行動に制約が掛かるということに繋がりやられてしまう
ソーシャルディスタンスの本質は武道にある
昔の日本人は剣があったからその適正距離の算出がめちゃうまかった
剣先を重ねた時の距離感を読む
相手が槍の場合だとどうだろうかと相手の持つ武器によっても変える
なんで関ヶ原の戦いで鉄砲が主流となったのに江戸時代では鉄砲は使われなくなったのか?
ここに日本のコミュニケーションに対する見えない本質があったんじゃないかなぁ←あくまで根拠のない空論です
相手の力を応用する
合気道で先生を前にすると力の無意味さを知ることができる
どれだけ相手が筋肉隆々の力自慢でもその力を無力化することができればその力すら意味がなくなる
宮本武蔵が五輪書で力むことよりゆるむことの重要性を水に例えて書いてることからも言えるように、水を理想として考えてみるとまたコミュニケーションの見え方も変わる
どんな相手に対しても合わせられる人は強いと言えるだろう
とことん完璧に計算されたものってどこか味気ないように思えてしまう
だからこそ計算できない不確実性ともいえる計算不可能性に人は惹かれるんだろうなぁと思っている
予想通りに進む世界というのはあまりにもつまらないものっすからね
予定不調和な偶然性を重視して動くのは面白そうだなぁ
と今日も色々な妄想をあちこち膨らませいくのです
そんなこんなで子どもたちを起こす時間でーす
哲学の世界が今めちゃ面白い
視点をたくさん持つことで見えてくる景色が大きく変わるもの
大抵の悩みみたいなものは先人たちが直面してるものなんだよな
それを知れば自分の悩みなんてちっぽけなものだったりする
歴史は繰り返すとはよく言ったもの
DNAの動きからも螺旋運動が原理なのかなぁ
と無数の問いが頭を駆け巡る
考えてばっかじゃ意味がないから今日も手をコツコツ動かす
目の前で形になったものがその日の自分の行動の成果だと思えばわかりやすい
最高な一日を