系譜を知るのは大事だけど固執は視野を狭くする
昨日はめちゃくちゃ嬉しい一日でした
山香デザイン室の小野さんが吉報を届けてくれてそれだけでほんと楽しい時間
仕事の話も交えながらなんか面白いことしたいよねと企んでいます
数十年後自分たちのような趣向を持つ人たちに刺さるような本を作りたい
古書店巡りをする中で絶版になってしまい値上がりしている本のような存在
自分たちなら今どんな内容を残したいと思うのか
無料で見れるインターネットとデジタルデバイスではなく今ここで紙の出版となるとどんな形態が面白いのか
そこを追求していきたい
今明治期から戦後の日本の文士や美術家、民藝、骨董周りの人たちの著作を読み漁っている
川喜田半泥子から北大路魯山人、柳宗悦、青山二郎、小林秀雄、白洲正子あたりを片っ端から食わず嫌いせずに読んでみる
所有していた物や展覧会の図録なんかも合わせて読む
言葉と物選びの眼や当時の歴史的背景も大きく絡んでくる
当時の生きた人間ドラマの背景は凄まじいっすね
そこから現代をみると気骨を骨抜きにされた感じがするくらいに熱量が違うように感じる
物選びや制作の姿勢に対して日頃から喧嘩が勃発するくらい熱い
だから今読んでも古く感じずに響くとも言える
眼の系譜は知れば知るほどに面白い
今くらい多様化してしまうとそれらを網羅することはかなり厳しい
ジャンルやカテゴリー分けにハマりたくはないけれど把握しておきたいのはみんな一緒っすよね
みんなでムーブメントのように集って一つのテーマを掲げてやる以外で個人の力は限られてくる
言葉は軽いけれど一度ファッション化(表面を視覚化)するとなんでも浸透するのが早いのは確かだろう
古道具や古家具だって括りでいうとインテリアな訳でそれが言い方でインダストリアル系やシャビー、退廃美を追求したデカダンスなどといったカテゴリーの話になっていく
その細分化したものにまた名前をつけていく
なになに派といった具合に各地で発生していく流れ
そこらへんは世代間での温度差というのもあるだろう
僕は感覚的な話でいうとミクスチャー世代
あるものとあるものを組み合わせてそこに新鮮さを追求する
何と何を「混ぜる」がキーワード
ここに「混ぜる派」の誕生です←ダサいな笑
常に組み合わせの妙を探っているとも言える
だから服選びも古物も建築も内装も思考体系すら「混ぜる」が基準
ここにこれを置いたら格好良いよねという考え方
一点に固定化してしまうと時間から取り残される
だから時代性という空気は絶対に無視することができないんですよね
みんな普遍性や普遍美を模索しているけど普遍性ほど曖昧な基準はない
国も変わればその信じてる普遍自体も変わるのであって
言葉にできない何かにこそ本質や普遍性が隠れているのではないかと思っている
あぁなんかあったかいなぁ
その感覚は人類に共通するから大事なことっすね
美が知的ゲームに置き換わって難しい言葉を並べて我が物顔で歩いてる
ドュシャンによってかけられた魔法に今も皆悩まされている
物自体の重要性が言葉に置き換わっては本意がずれる
ドュシャンの墓石に刻まれた「死ぬのはいつも他人」
達観してるんだよなぁ
仏教思想を根底に感じてしまうのは俺だけっすかね?
言葉ほど曖昧なものはない
だから姿勢で示すことにこそ意味がある
やるやるいうのは簡単でやり続けるかどうかは外部からじゃないと見えないものだ
自己重要性を下げていかないとプライドだけがむくむくと育ってしまう
自分を殺して何ができるかが重要っすね
滅私
そんなこんなで子どもたちを起こす時間でーす
いやぁ毎日が過ぎるのがあっという間
こうやってブログに綴って今の自分の考えを見返せるからまだいいもの
数年先に見返すとあの時あんな考え方だったんだぁとその自身の変化を楽しめる
まあ気負わずに淡々とやるべきことをやろう
お店は通常通り開いてますよ
展示が続くとそこに人が集中してしまうけど常設こそがお店の醍醐味だと思ってます
コツコツ手を動かしていきましょう
最高な一日を