仕事の時間と家族の時間 ストイックさはどこまで必要か?
土砂降りの日曜日の朝
春休みももうすぐ終わる息子のためにも子ども孝行でもしようと思っていたのだがどうしようか
子どものやりたいを純粋に叶えてあげられる人ってほんとすごいと思う
例えば映画とか観に行く時にどうせ一緒に観るなら自分も楽しめるのがいいなぁと「これにしない?」と親の意見を交えてしまう
せっかくならその時間を楽しみたいからだ
でもそれが子どもにとって一番観たいものでない可能性だってある
じゃあ子どもの意見を尊重してないことにもなるわけでこの辺の葛藤は生きてりゃありますよね?
個人的にはエヴァが観たいと思いながらも小学生にはまだ早いだろうなとか、子どもたちはコナン観たいって言ってるけどコナンかぁと思ってしまう自分もいる
そんな大人になりきれない中身は子ども見た目はオトナな自分がたまに辛い、、、
視野を広く保つために水平レベルでの目線より上に明確な目標となる視点を定めると動きがブレにくい
それが自分を引き上げてくれる存在であり師匠のような存在
僕にとっての心の師匠みたいな人たちがたくさんいる
過去の偉人だったり直接会って話せる距離じゃない人もたくさんいるんだけど、その人たちの周りにいる人が綴るその人の行動や思考や会話なんかを読むとこのままじゃいかんなと静かに螺子を巻く
生き方に対する一貫性
仕事に対する美学
圧倒的な知識とアイディア
そして人として人格破綻していないことが挙げられる
その行動量にもう泣きそうになるし振り切られて迷子にもなる
そこまでやるのかぁといつも絶望に近い気持ちになるんですよね
落ちきったら潔くなる
その状況を誰も助けてなんてくれやしない
自ら這い上がるしかないのだ
だからこそコツコツと習慣化して続けるのって本当に大事
レベル上げをサボらない
いつだって向き合うのは自分の声
全ての人に共通するまだもう少し寝てたいという毎朝の声との葛藤もそう
日常生活と切り離せないからこそその時間をどう使うかだし、でもこの考えになると合理的思考に陥りやすいから気をつけないといけない
極度なストイックは一緒にいる相手にも空気として伝搬してしまう
千利休の作った茶室「待庵」
あの二畳の薄暗い中で茶を飲むのってものすごく緊張感を強いるように
そこから古田織部の趣向満載な茶室「八窓庵」や小堀遠州の「弧篷庵」のように武家社会に溶け込みすいカジュアルに振れていったのではないかと思っている
ストイックは削ぎ落とすという意味である種の究極の洗練とも言えるのだがそこの追求はなかなかにハード
でもストイックが新たな道を開きそこを追随する人たちが出てきて大衆に浸透しカジュアルとなる
この流れというのはどの世界でも外せない
居る側に一種のストレスを強いるのと同時にその敷居の高さに居る自分すごいでしょ!?という内に生じる相反する感情に触れてこそ心の成長というのもみられるのではないかと仮定してます
そんなこんなで子どもたちを起こす時間でーす
結局何を見るのかなぁ
仕事の時間と家族との時間だったりどっちかに傾き過ぎてもまたバランスがおかしくなってしまう
その辺も意識していかないと色々なものを失いかねないっすよね
何事もバランスが大事とはわかってる
でも走ってる最中というのは見落としがちだから気をつけたいもの
こればかりは日頃の意識の観測域を広げ続けるしかない
コツコツと手を動かしていきましょう
今日も最高な一日を