言葉を綴るということ
言葉を綴る。
書くということが毎日の自然な行為の一つだった。
日常の中に根付き、当たり前の習慣となる。
それが、いつの間にかノートに文章を書くという行為自体に、
白い余白を埋めていくという作業に、
堆積されていくページに、
どこか満足している自分がいることに気付いた。
いや、最初はそれでもよかったのだ。
その日、感じた心の機微をそのまま書き記す。
気になった言葉をメモとして残す。
疑問や違和感を言葉として残しておく。
特に意味を持たず、軽い気持ちで続けるのにはちょうどよかった。
このブログもその延長として始めたのがきっかけだ。
いかに素のままの状態でいられるかが大事だった。
雑誌の取材やWeb媒体などで言葉を書く機会を幾度と頂いたことがある。
それはここで書く言葉とは違う他所行きの言葉。
ちょっと背伸びしたような、お洒落な装いに着替えた言葉だ。
書く場所によって、装いを変える言葉の持つ性質を不思議に思いながら、
言葉の持つ多面多様な性格に惹かれていく。
もっと自由に言葉を使えるようになりたい。
そんな思いは年々募っていった。
来月、8月5日から和歌山にあるensでの2回目の作品展。
オーナーの有紗さんに作品と一緒に言葉を綴ってみなよと言われた。
基本的に何か新しいことができる機会を頂ければ、
なんにでも挑戦してみたいという姿勢で生きてきたこともあって、
迷うことなく二つ返事で引き受けた。
今、展示が迫る中で、それを怖いと思っている自分がいる。
言葉を作品として並べるときの反応が怖い。
誰にどう思われるかなんて普段そんなことを考えても無駄なので、
気にしたりしないのだが、今はそれが恐ろしいくらいに怖いと感じている。
形式をどうするか、どう着地させるか、
頭の中でいかに安全な着地、失敗した時の転び方を考えている情けない自分がいる。
本来考えるべきところはそこじゃない。
そんなことは百も承知で知っている。
深く息を吸い込み、一気に潜る。
そこで見た景色の断片を拾い集め、書き綴ればいいだけなのに、
小賢しい頭の声がやたらとうるさい。
それがなにであれ、初めての体験をする時ってそんな心境に陥ることはあるだろう。
実際にそんな体験を何度となく経験してきた。
少年漫画の主人公に自己を投影させて、
根拠なき自信で脳を麻痺させていく感覚。
それが年々薄れていっているんだと痛感する。
その反面、まだ見ぬ自分の中にある情けない葛藤に、
否が応でも向き合わざるを得ないこの状況には感謝しかない。
外を気にしても何も変わらない。
内と徹底して向き合うことでしかこの状況が好転することはない。
この数週間、いつも以上に内外を激しく往来している。
真っ直ぐに、目の前の物事から背くことなく向き合いたい。
心の奥底にある、まだ開けていない扉の奥を覗けば覗くほど、
その闇の深さに何度も呑み込まれそうになる。
もう一歩、二歩とその奥へ足を踏み込んでみる。
その先にはまだ見たことのない景色が広がっているのがうっすらと見える。
安全圏内から石を投げるように、誰かの作品についてあーだこーだいうのは簡単だ。
晒されて、評価されてこそ、初めてタフになっていく。
今の自分は今の自分でしかない。
数年後の自分から見たら笑ってもいい。
精一杯背伸びしたり、着飾ったりした、等身大の”今”を綴ろう。
あるがままに。